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シャミール・バサエフ戦死までの日々4




シャミール・バサエフの運転する車で、脱出回廊の偵察中、
毒ガス攻撃を受けた。


ロシア軍の化学兵器攻撃が始まったことには戦況の転機的意味があるとの見方が
チェチェン兵たちのあいだで強まってきた。

投下された毒ガスは、神経系を主体としてはいず、嘔吐系として有名なアダムサ
イトっぽいが、アダムサイトは、ほかの毒ガスと混合で使用することが多い。嘔
吐だけでなく、内臓痙攣などいろいろな現象がすぐに発症した。致命傷にはなら
ない嘔吐系にしてくれたこと、ロシア軍に感謝すべきかな。
アダムサイトは、発症が速く、また戦意喪失効果が強い。ということは、これを
使用したということは、警告の意味があったのだろうか。もちろん、当時現場で
は私は、こんな冷静な判断はしていない。
もろもろの状況きうと合わせてみて、後日そう感じたのです。

化学兵器に続いて、7発の迫撃砲弾が、シャミールバサエフ部隊の中心に着弾
し、2人が戦死2人が負傷した。

最強硬派といわれているシャミール・バサエフは、最前線の指揮官たちから、現
況報告をじっくりと聞く。会議は2時間以上に及んだ。その間、シャミール・バ
サエフは、自ら発言をすることは少なく、前線指揮官たちの話を一方的に聞いて
いた。バサエフ部隊の隠れている位置が、じょじょにロシア軍に知られ始めてい
るという意見が主流になってきた。

対戦車部隊の指揮官は、「大々的な配置換え」を奨める。
元空挺部隊少尉は「防御ラインの縮小」を
元東ベルリン駐在ソ連軍大尉は「回廊の再点検を」と。

そして、バサエフは「部隊を撤退させる。第1陣は、今夜に出そう」と決断し
た。最強硬派といわれているシャミール・バサエフを前に、誰も「撤退」を言い
出せなかったけど、意図は撤退ということだったのだろうか。

「撤退」という言葉は、最強硬派シャミール・バサエフ自身から出た。

バサエフは、私のほうを見ると
「カートさん第1陣と一緒に脱出してください。それとも、ここに最後まで残り
たいですか?」と、とりあえず、こちらに選択権を残している。

シャミール・バサエフは、命令はしなかった。
私がバサエフ部隊に同行としていた7日間、バサエフが部隊に命令したのはすご
く少ないのではないか。ゲリラ部隊には、正規軍のような命令系統や、上官の統
帥権はない。バサエフ部隊では、この時期(1995年2月中旬)、戦場から離
脱して去ってゆく同胞兵士が多くて、バサエフとしても寂しかった時期である。

シャミール・バサエフは、去る者は追わないタイプのようだ。

そんなときに、呑気の国ニッポンから1人やってきたものだから、バサエフは私
に、いろいろとよくしてくれたのだろう。


(作戦会議の部分は、英語のできるダゲスタン義勇兵の通訳で理解しました)
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続く