戦争・軍事 > 戦争と音楽の深い関係|戦史研究家のロシア名曲鑑

ロシア兵たちへのレクイエム(鎮魂歌)

戦史研究家のロシア名曲鑑14
(戦史研究家&ロシア歌曲歌手・ミハイル・フルンゼ


見知らぬ土地で死んでいったロシア兵たちへのレクイエム(鎮魂歌) 「名もなき高台で」≪На безымянной высоте≫

 各国の戦争歌、軍歌には歴史に名を残す戦いをテーマにしたものがよくある。
もちろん、旧ソ連、ロシアにもいくつかあるのだが、ずっと後の時代まで唄いつ がれるものは、特定の土地と戦功にしばられない普遍性=兵士の哀しみとか、苦 しみを的確に表現したものが多いように思われる。

 ソ連時代から今日まで、戦争を追憶するイベントでよく演奏される曲のひとつ に、そうした普遍性を持つと思われる代表曲、「名もなき高台で」≪На безымянной высоте≫がある。
 ある高台をめぐる戦いを描いたこの曲の歌詞は、以下の通りである。

(1)
山のふもとの 焦げた木は
夕焼けの火と共に燃える
残ったのは ふたりだけ
18人のうちの これだけ
たとえようもない 素晴らしき仲間たちも
いまは 暗闇に横たわる
なじみのない 集落で
名もなき 高台の上で

(2)
炎の尾をひく ロケット弾は
まるで 流れ星のよう
一度でも この光景を見たなら
いつまでも 忘れられないだろう
そうけっして けっして忘れられない
この容赦なき 攻撃を
なじみのない 集落への
名もなき 高台の上への

(3)
頭上には メッサーシュミットが舞い
まるで 真昼のような明るさ
でも 我々のきずなは 強かった
十字砲火に 見舞われても
いかなる困難が 降りかかろうとも
君は 信念に忠実だった
なじみのない 集落で
名もなき 高台の上で

(4)
私は しばしば夢に見る
戦線にいた時の 仲間みんなを
壕舎の中 簡易ストーブで
燃える 松の木を
彼らと共に 引き戻されるようだ
あの火点の前に
なじみのない 集落の
名もなき 高台の上の

【ユーリー・グリャーエフ「名もなき高台で」/mp3録音】

 この歌は、1963年に制作された映画「沈黙」≪Тишина≫の挿入歌として作られ た。しかし、作詞者のミハイル・リヴォビッチ・マトゥソフスキー (1915-1990)は、この歌詞のモチーフを20年にわたって温め続けていたのだ。

 従軍記者だった詩人マトゥソフスキーが同僚記者から件の戦闘について聞いた のは、1943年9月。同月の13日夜から14日未明にかけてモスクワ北西カルーガ州 の最前線地区にあるルベジャンカ村わきに位置する「224.1高地」(軍事用語 で、数字は標高を表す)をめぐる戦いについてだ。

 高地は地上戦闘においてしばしば争奪の地となる。なぜかといえば、高台から 敵側の布陣や地勢を観測しやすく、砲兵火力を有効に発揮させるための絶好の 「目」となるからだ。「224.1高地」上の小さな集落にはドイツ軍ががんばって いたが、秋季からの攻勢を計画していたソ連軍にとって8〜9kmの周囲を見渡せる 同高地を奪取することが必須の課題となっていた。

 そこで、ルベジャンカ村付近に布陣していたソ連第139狙撃師団第718狙撃連隊 は夜間、決死隊を送り込んで高地を攻撃することに決した。「共産党員は率先し て志願せよ」(しばしば、大戦の後半期からソ連軍で行われたやり方で、勝ち戦 が見え始めた時期に命を惜しむ風潮が出ぬよう、下級将校や下士官、兵士の共産 党員や党員候補を決死任務に「志願」させたのだ)との呼びかけに応じたのは、 30歳のポローシン少尉を含む18名。多くがノヴォシビルスクからやってきた労働 者、技師出身の20代〜30代からなる熟年兵士たちだった。

 夜襲戦術が選ばれたのは、モスクワから北西に位置し2年近く安定していたこ の戦線では、ウクライナ方面のようにソ連軍が優勢な兵力を集中して攻勢に転じ ていた正面と異なり、砲兵火力や戦車兵力などが十分に配置されず、航空戦力も ドイツ側が優勢だったためだ。ともかく、夜間のうちにドイツ軍の観測陣地を奪 取し、1日以上持ちこたえて次の日の夕刻にソ連軍増援部隊を投入して確保する という算段だった。

 多くが2度目の兵役で腹のすわっていた年配の志願兵たちは、夜闇に乗じて小 隊規模で布陣していたドイツ歩兵を「224.1高地」から追い払うことに成功し た。しかし、夜が明ける前からドイツ軍の迫撃砲火やロケット弾攻撃にさらさ れ、夜が明けると1個大隊規模(約300名)のドイツ歩兵が反撃してきた。

 当時のドイツ軍でよくいわれた話で「穴にもぐったロシア兵はてこでも動かな い」というものがある。「ロシア兵が突破してきたら、すぐに撃退しないと腰を すえてどかない」という教訓を表現したものだが、高台の塹壕陣地に入った少数 のロシア志願兵たちは砲撃を何度も受け、来襲したドイツ機の機銃掃射や投弾を 受けながらも決して屈することはなかった。

 ときにはスコップや銃剣で渡り合う白兵戦を演じながら、ひとりも奪取した高 台の陣地から逃げようとしなかった。結局、ソ連軍が本格的な攻撃を始めた夕刻 までに志願兵のうちの16名が戦死し、1名が負傷したまま手榴弾で自爆しそこ なってドイツ軍に連れ去られた他、たった1名が生き残って抵抗を続けていたのだ。  あたりにはドイツ軍の100以上にのぼる遺棄死体が散乱し、集落の家屋はすべ て破壊されて燃える材木の炎があちこちにちらついていたという。第139狙撃師 団の部隊新聞は志願兵たちの「偉業」を称え、記事をこうしめくくった。

「…死してなお、我らの英雄たちは前進を望んだ。彼ら全ての頭は、西に向かっ て倒れていた。死すら、彼らの突進力を阻むことができなかったのだ」

 この時、ソ連側へたった1人生還した兵卒ゲラシム・ラーピンの証言を脚色し て武勇談が仕立てられたのだが、後から話を聞いたマトゥソフスキーは納得が行 かなかったようだ。興奮する同僚記者たちに急き立てられて、「224.1高地」の 「偉業」を詩作しようとしたが、完成させることができなかった。

 しかし、その後20年たった際、映画「沈黙」を見たマトゥソフスキーの同僚記 者の1人は、挿入歌を聞いてすぐにわかったという。「これは、あの高台の兵士 たちを唄ったものだ!」

 マトゥソフスキーが「名もなき高台の上で」を完成させた1963年は、スターリ ンの暗黒時代に幕引きをしたフルシチョフの「雪解け」時代。無制限ではなかっ たとはいえ、言論・表現の自由が広がった時期だ。

 「名もなき高台の上で」の歌詞には、戦時中の師団新聞が書いたような武勲や 英雄行為への「賞賛」はない。ただ、普通の兵士たちの苦行と犠牲に対する回顧 と鎮魂があるだけ。それゆえに、この歌は映画以上に広く旧ソ連国民に愛され、 唄われるようになった。

【エドゥアルド・ヒル「名もなき高台の上で」/YouTube映像、1976年】

 18名の志願兵たちーいずれもソ連共産党員か、その候補者であるが、みな普通 の労働者、技師であり戦争の運命に翻弄されながら平凡に生きようとした人々で ある。「名もなき高台の上で」戦い、命を落としたいわば「無名の兵士」たちで あるが、ロシアでは敢えてこの人たちの名前が歌と結びつけて記憶されている。

 マトゥソフスキーがヴェニアミン・エフィーモヴィッチ・バスネル (1925−1996)の曲に託した想いは、これら「無名の兵士」たちへの鎮魂である ことは間違いない。この歌を味わう上で、18名の兵士たち(ごく普通の人たち で、戦争がなければ平凡な人生を送ったに違いない)の名前を銘記しておくこと

は日本でも決して無駄なことではあるまい。

イェフゲニー・ポローシン…少尉。決死隊指揮官。戦死。イェカテリンブルグ出 身、化学技術学校卒業。コムソモール開拓志願員としてロシア北部地区工場建設 に従事。1941年11月、モスクワ攻防戦で負傷。

イェメリヤン・ベロコノフ…党扇動員(政治将校)。戦死。ロストフで工場労働 者として働きはじめ、ノヴォシビルスクで戦時疎開した工場の再建に党活動家と して参与。ノヴォシビルスクの「10月地区」党委員会から前線勤務を志願。

ピョートル・パーニン…曹長。戦死。バクー、極東地区、シベリアなどを転任し たベテラン下士官で、演習場教官を長く務めた。戦争中期、何度かの志願の後に ようやく前線勤務が認められた。

ダニール・デニソフ…上級軍曹。戦死。上級試作技師としてコムモリスク−ナ− アムーレで勤務。その後、戦車部隊で軍務についた後、「労働予備軍」編入。独 ソ開戦時、軍に志願するも熟練技師であるため軍役に就けず。彼の姉妹は出征 し、不満だった彼は何度も志願し1943年にようやく入隊を許可。

ロマン・ザコモルディン…上級軍曹。戦死。タンボフ出身。砲兵として軍務に就 いた後、コンベアー工場労働者としてタガンローグで勤務。1941年に独ソ開戦直 後、ノヴォシビルスクへの工場疎開に従事し自身も移住。同地で軍に志願。

コンスタンチン・ヴラーソフ…軍曹。負傷して捕虜に。その後、ボブルイスクの 捕虜収容所から西方への移送中、鉄道から飛び降りて脱走。1943年11月から1944 年7月にかけて、ベラルーシのミンスク地区でパルチザン部隊「復讐者」に参加 し、再び負傷。戦後、「名もなき高台」記念碑完成式典で生き残りのラーピンと 再会。

ボリス・キーゲル…軍曹。戦死。ノヴォロシースク食肉コンビナートの労働者志 願兵。キーゲルは同コンビナートで電気技師として勤務。

ニコライ・ダニレンコ…軍曹。戦死。ノヴォシビルスク州クピンスク地区リャグ シエ村出身。農業機械整備工場勤務時にコムソモール(共産主義青年同盟)参 加。海軍で4年軍務に就いた後、ノヴォシビルスクで工場勤務。

アレクサンドル・アルタモノフ…兵卒。戦死。運転労働者。歌好きで、開戦後に 軍に志願するも工場の輸送部門に欠かせない要員として、受け付けられず。1943 年6月にようやく軍に志願入隊。

ガヴリール・ヴォロビヨフ…兵卒。戦死。工場建設技師。建設労働者チームを統 括し、多くの工場建設に従事。歌と労働をこよなく愛する好漢として知られていた。

ニコライ・ゴレンキン…兵卒。戦死。ノヴォシビルスクに西方から疎開してきた 工場の労働者。熟練工であったため、軍志願を受け付けられず、1943年7月によ うやく志願入隊が許された。

タターリ・カサビエフ…兵卒。戦死。ノヴォシビルスク州ジェルジンスキー地区 の熟練工場労働者。5人兄弟で、全員が大祖国戦争に出征。

イヴァン・クリコフ…兵卒・戦死。工場労働者。文学好きで、プーシキン、レー ルモントフ、ゲーテ等の詩人を愛していた。詩作もした。よき労働者、家庭人で あったが、妻と娘を残して戦線に志願した。

ゲラシム・ラーピン…兵卒。生存者。ウクライナのドンバス炭鉱労働者で、独ソ 開戦にともなう疎開後、ノヴォシビルスクの軍事工場労働者。「名もなき高台」 の戦闘後、負傷を回復後に第139狙撃師団に復帰。ベルリン攻防戦に参加、終戦 時は部隊と共にエルベ河畔で迎えた。戦後、「名もなき丘」の記念碑開幕式典で ヴラーソフ軍曹と再会。戦後はドンバスに戻った。

エリューシャ・リポヴェツェル…兵卒。戦死。ハリコフ機関車工場の労働者。工 場疎開後、ノヴォシビルスク重プレス工場に配転。少年少女からなる16名の労働 チームの指導者として勤務。1943年、志願入隊が認められた時、少年少女たちに 次のように挨拶して出発。「じゃあ、みんな! 別れの時がきた。また戻ってく るよ。早く勝利して、また会おう!」

ピョートル・ロマーノフ…兵卒。戦死。「18名の英雄」の中で最も若かった。 トゥーラ州ミシェンスキー村出身。15歳でコルホーズ労働者となるが、兵役は極 東地区で高射砲兵に。独ソ開戦後は、ノヴォシビルスクに移り疎開してきた工場 の労働者に。1943年夏に志願入隊を認められた。

ドミトリー・シリャホフ…兵卒。戦死。交通機械車輛大学出身。独ソ開戦時は、 ウラル地方で建設事業に従事。1943年に志願入隊を認められた。

ドミトリー・ヤルーガ…兵卒。戦死。17歳からドニェプル発電所に勤務し、その 後ザポロージェ鉄工所勤務。疎開でノヴォシビルスクの工場に熟練工として勤 務。1943年に志願入隊を認められた。

【ロシア語歌詞】

(1) Дымилась роща под горою
И вместе с ней горей закат
Нас оставалось только двое
Из восемнадцати ребят.
Как много их, друзей хороших,
Лежать осталось в темноте,
У незнакомого поселка,
На безымянной высоте.

(2) Светилась, падая, ракета,
Как догоревшаая звезда.
Кто хоть однажды видел это,
Тот не забудет никогда.
Тот не забудет, не забудет
Атаки яростные те
У незнакомого поселка,
На безымянной высоте.

(3) Над нами мессеры кружили,
И было видно словно днём,
Но только крепче мы дружили
Под перекрестным артогнём.
И как бы трудно не бывало,
Ты верен был своей мечте
У незнакомого поселка,
На безымянной высоте.

(4) Мне часто снятся те ребята
Друзья моих военных дней.
Землянка наша в три наката,
Сосна сгоревшая над ней.
Как будто снова вместе с ними
Стою на огненной черте
У незнакомого поселка,
На безымянной высоте.