バブル絶好調道の川柳・森川晃目黒区

首都高速ジャンクション成就物語5




◆地図3
首都高速路線図(2)
1987年までに開通した路線。

東京線の整備状況に比べて、神奈川線は稀薄である。1987年までに東京線はおおむね開通し、以降は既存区間の渋滞対策のために補間路線を追加していった。
  この時期は、路線を外に伸ばすだけでなく、遺産の再利用を開始する期間に入ったのである。
  外に伸ばすのは10年以内だが、再利用の早稲田出口は17年7ヶ月に延びた。

3)横浜湾岸整備期(成就まで11年以内)

 1990年から2002年4月までの期間に着目する。

 東京線はおおむね開通し、神奈川線が順次開通していった。東京と横浜の間は、1968年11月28日から横羽線1本で耐えてきたが、それから26年を経た1994年12月21日に湾岸線が加わった。東京と千葉の間が11年で2本になった(1971年3月21日に小松川線が京葉道路に直通し、1982年4月27日に湾岸線が東関東自動車道に直通した)ことに比べると随分遅いのは意外である。千葉は成田空港開港による特需のせいで早まったのだが、開通後に十分な需要があったので決して無茶な整備ではなかった。

 バブル景気(1990年まで)以降の低迷期間に入っているが、首都高速の整備ペースは変わらない。都市高速道路の建設には時間がかかるので、この期間の開通区間の発注時はまだバブル期だったということなのだろう。

4)都心再整備期(成就まで15年以上)

 2002年12月から現在(2009年11月)までの期間に着目する。

 東京、神奈川線ともにおおむね開通し、渋滞ボトルネック解消のため既存の開通区間を補間する路線が開通していった。これらの路線の構造は複雑で、トンネル区間も多い。そのため工期は増大する。また、景気低迷期に入り、投じる費用も制限されるようになってきた。元々、最初の開通から状況注視してきた箇所の見直しなので、着手は遅い。それに工期、予算が重なり、さらに成就時期は遅くなる。

これまでのジャンクション成就はせいぜい10年程度だったが、急に増大した。ほとんどが地上の高架構造である中央環状線(板橋JCTと江北JCTの間)が川口線と接続する江北JCTが15年4ヶ月とやや長い程度だが、ほかは20年以上である。さきほどの中央環状線においても池袋線と接続する板橋JCTは25年5ヶ月も準備構造物が放置されていたのだ。そして、来春(2010年春)開通する渋谷線と中央環状線が接続する大橋JCTの成就は、これまでで最大の38年3ヶ月もかかっている。

 今後は、2012年度に横浜環状北線と大黒線との生麦JCTでの接続が23年7ヶ月はかかるとされている。横浜環状北線はほとんどがトンネル構造で工期は遅延する傾向がある。23年7ヶ月以上と考えた方がよいだろう。

 2013年以降については、開通目処が明確ではないので、ここでは取り上げない。可能性があるとすれば晴海線の新富町接続くらいだが、もしこれが実現すれば、50年以上にわたるジャンクション準備構造物の放置になることは間違いない。


◆写真5
大橋JCT
目黒区大橋2
玉川通り(東邦大学大橋)病院入口交差点から、首都高速3号渋谷線、大橋JCT、
渋谷方向をのぞむ。
写真中央が渋谷線本線で、1971年12月21日に開通した。右側の高架橋は下
り線から大橋JCTへの分岐部である。橋脚が立てられて、38年後にようやく梁
が載せられたのだ。
(2009年10月24日、著者撮影。)

 道路構造物の寿命は永遠ではない。構造物の種類、設置状況、利用状況により異なるが、耐用年数は必ず規定している。保守をすれば、耐用年数を延ばすことはできる。1962年の初開通以降、首都高速は開通からの経年により保守プログラムを実施している。最も古い開通区間は、開通から45年以上を経ていて、大規模な補修を施さなければいけない時期にきている。今後は、長期通行止めにして構造物を取り替えるケースも出てくるだろう。首都高速よりもずっと以前(戦前)に開通した一般道路の、主に橋梁の架け替えは全国あちこちで見ることができる。迂回路に誘導したり、仮設道路を設置したりして、本線部分に作業スペースを確保し、数ヶ月以上をかけて構造物を取り替える。

 都市高速道路では、本線構造物を取り替えるケースはまだ見られない。本線延伸に伴い終点の構造変更が実施され、このとき通行規制されることがあるくらいである。


◆写真6
首都高速池袋線熊野町カーブ事故現場
板橋区熊野町
山手通り外回り金井窪交差点から首都高速池袋線、熊野町JCT方向をのぞむ。
撮影時は、事故から43日を経過し、最上層の床版の取り替えを実施していた。
おおむね仕上げ段階で、撮影の16日後には全面開通した。
(2008年9月15日、著者撮影。)

 ところで、前文で「本線構造物を取り替えるケースはまだ見られない」と記したが、実は全国の都市高速道路では2回大規模な構造物取り替えを実施している。1回は、2008年8月3日の池袋線熊野町カーブでのタンクローリー横転事故による火災が原因の上部構造物損傷である。この区間はダブルデッキ構造で、下り線が下層、上り線が上層に位置している。下り線での火災は、上り線の床版をひん曲げてしまった。この対処のために、上り本線(ダブルデッキ上層)構造物を約2ヶ月で取り替えた。

 上部構造物だけの交換ならば、急げばこのくらいで何とかなるが、下部構造物の交換には時間がかかる。もう1回の取り替えでは、下部構造物も取り替えている。

 1995年1月17日の阪神淡路大震災による阪神高速神戸線、湾岸線の崩壊である。下部構造物が完全に崩壊した区間の復旧には約2年かかっている。いすれも老朽化ではなく事故である。しかし、今後老朽化による補修スケジュールをたてるにはとても参考になる。

 首都高速の大規模な補修はいつ実施されるのだろうか。

 2007年6月20日、国道23号名四国道の木曽川大橋のトラス鋼材が破断していることがわかった。すぐに落橋するような事態ではないが、すぐに補修すべき事態である。見た目にも気味が悪い。名四国道は名古屋と三重県四日市を結ぶ幹線国道で、当該区間は2車線のトラス鉄橋が上下2本並んでいて、名古屋方向の鉄橋に破断が見られた。もちろん、すぐに通行止めにして、応急措置を施し、開放した。現在(2009年11月)は抜本対策のため、名古屋方向の鉄橋を通行止めにして、四日市方向の2車線を対面通行で運用している。

 名四国道の当該区間は1963年2月26日に開通している。元々、この区間は一般有料道路(名四道路)として開通したが、交通量が多く、予定よりも早い1972年12月27日に無料開放された。それ以降も交通量は増大していった。この道路は単に多いのではなく、大型車混入率が極めて高い。東京、大阪、福岡にも混入率だけならば同じような路線はあるが、率だけなく量が名四国道に匹敵する区間は見あたらない。全国でもめずらしいトラック専用道路である。木曽川大橋は木曽川の河口部に位置している。

2002年3月24日にさらに河口部に伊勢湾岸自動車道が開通するまでは長きに渡り最河口部に架かる橋だった。そのため伊勢湾に近く、塩害は避けられない。橋梁の補修は怠らなかったとは思うが、開通後44年を経て、道路は悲鳴を上げているということだろう。

 大橋JCTでは、渋谷線の開通から38年を経ている。渋谷線と名四国道では条件が異なるので、同じ論理は成立しないが、少なくとも交通量では渋谷線は名四国道を上回る。38年は道路が悲鳴を上げてもおかしくない期間とは言えるだろう。

 2010年3月には、38年前から放置されている橋脚に新たな構造物が載せられた箇所が開放されることになる。もちろん、載せる前に補強はしているはずだが、取り替えは実施していない。


◆写真7
国道23号名四国道上り線(名古屋方向)木曽川大橋
愛知県桑名郡木曽岬町
トラス橋の鋼材が完全に破断している。
(国土交通省三重河川国道事務所Webサイトから引用。)

 先述の池袋線熊野町カーブでの事故により、事故の約1年半前に開通した山手トンネルを含む中央環状線も通行止めになった。これは事故なので池袋線の老朽化には無関係だが、開通間もない路線が、接続する古い路線の影響で規制される構図になっている。偶然とはいえ、不吉な現象である。大橋JCTでは、このようなことがないよう祈っている。

 子供のころ、1964年に開通した東海道新幹線は戦前から着工し、一部区間は戦前に完成していたことを知った。その長い時間にとても驚いた。完成区間は静岡県の日本坂トンネルで、1945年に敗戦を迎え、新幹線計画が頓挫した後、同年からは、在来線の東海道線のトンネルに転用していた。(当時、東海道線のトンネルは単線トンネル2本をそれぞれ上下分離して使用していた。日本坂トンネルは丘陵が海に落ち込む地形に掘られているため、海岸に近い箇所に位置する。そのうち1本が高波により崩壊した。それにより新幹線用に掘られた複線トンネルを転用することにした。1964年、新幹線にトンネルを返すときには、東海道線用に別のトンネルが掘られていた。つまり、日本坂については新幹線よりも東海道線のトンネルの方が新しいことになる。)

その後、新幹線計画が再浮上し、日本坂トンネルは1964年に新幹線のトンネルとして利用されるようになった。これも成就である。成就までの期間は19年である。21世紀に入ってからの首都高速のジャンクション成就までの期間に比べたらたいしたことはない。

 年月は年を取るほど、進行が遅く感じる。子供の1年と老年の1年では、その印象には大きな違いがある。10歳の人には11歳は想像できないし、20年後の30歳ははるか未来である。60歳の人は、60年までは実感がある。20年前の40歳を思い出すことは簡単である。ついこの前という印象に違いない。大橋JCTの成就までの38年は子供にとってはとてつもなく長い期間と感じるだろう。

(2009年11月16日、脱稿。)


続く