ヒマヒマなんとなく感想文|

「傭兵の誇り」


(森川 晃 2003.7)

「傭兵の誇り」高部正樹 小学館
 この本によりいくつかの再認識が強いられた。傭兵は事実上ボランティアであること、ポジティブな姿勢がないと雇用されないこと。
 
 戦争には莫大な資金が投じられるので、当然兵士もその恩恵を受けるものと思っていたが、還元されることはない。また、潤沢な戦費が投じられる戦闘は案外短期間で片が付くが、小国のゲリラに代表される貧民の戦闘は長きに渡る。時間を金に換算するのは、恵まれた国家の驕りということだろうか。それとも、戦争行為も結局は金で解決するということだろうか。

 参戦は、やはり「赤紙」による強制召集のイメージがあった。現在でも兵役は多くの国家に課されているが、実戦が迫る国家では積極的に申し出た者がふるいにかけられる。実戦はあくまでもプロの独断場で、兵役は単に体裁だけのものなのだろうか。
いずれも、平和ボケ日本に生まれ育った当方には容易に想像できるものではなかった。ところで、最も意外だったのは、「傭兵は特に敵対視される」ということである。A国とB国が戦闘状態になったとき、B国民の兵士よりもB国に雇われたC国民の兵士の方が、A国民には嫌われる。なぜだろうか。やや、不謹慎だがプロ野球に例えてみる。巨人ファンから見れば、阪神の藪投手よりは、助っ人外人のムーア投手の方を敵対視するということだろうか。日本人だが大リーグから帰国した伊良部投手への感情も微妙なものだろう。本当にそのような感情が働くのだろうか。やはり、中日ファンの当方には理解し難い。

 さて、2003年7月26日未明にイラク支援法が成立した。これにより、合法的に自衛隊がイラク復興支援に派遣されることになる。この法案の成立は一連のアメリカ従属経緯から十分予測できた。ある意味自然な流れである。イラク国民から見れば、10年以上前の湾岸戦争のときから日本のスタンスは理解していただろう。日本は決して味方ではないのだ。イラク国民が日本にいかなる敵意を持っていても、これまではよかった。現地に人材を派遣せず、単にアメリカの株主だったのだから。しかし、今回の支援法により直接イラクに関わることになる。イラク国民の敵対視対象は日本という目に見えない偶像から自衛隊員という日本人に変わる。大丈夫だろうか。偶像は手を出せないが、日本人には手を出しやすい。現在は、戦争が終結していることになっている。支援法でも戦闘状況では派遣しないことになっている。本当に終結しているのだろうか。

 当方は軍事については何も知らない。終結のイメージは、やはり第二次世界大戦の終結のように国家元首が降伏し、国際的な監視下で終結文書に調印するのが終結と考える。アフガニスタンのケースや今回のイラクのケースのように元首(首謀容疑者)の生死すら確認せず、物理的に戦闘不能になったことだけで終結とするのはあまりにも乱暴ではないだろうか。国民に公式に終結宣言をしなければ、多くの国民は精神的には終結しないと思う。いかなる宣言をしてもタカ派は残るが、宣言をしておけば彼らは亜流に過ぎない。戦勝国のあいまいな勝利宣言だけでは、誰も納得できないような気がする。つまり、イラク国民は精神的には敗北していない。扇動すれば簡単に戦闘は再開するだろう。このような状況を安全と判断して半端な武器を装着した自衛隊を派遣して問題はないだろうか。

日本の自衛隊はアメリカ駐留軍の助っ人である。半端ではあっても武器を装着しているので派遣ではなく派兵である。つまり、アメリカ軍の傭兵である。傭兵は特に敵対視される。

当方は、無邪気な平和主義者ではない。単に「はっきり」してほしいと思っているだけである。事実を隠蔽して強者に都合のよい状況を画策していれば、どこかで綻びが表面化する。このとき犠牲になるのは、事情のわからない国民だけである。いかなる自然法則もシンプルな値が正解である。事実を歪曲させることは自然法則に反する危険な契機になる。嘘を重ねることは相当な知力が必要になり、そのことに集中するあまり主題を忘れてしまう。

 いかなる状況になっても自然法則にかなっていれば納得できる。平和ボケ日本に生まれ育った当方でも自然法則に反してまで平和を維持できるという楽観はしていない。納得できる説明があれば、いかなる状況にも順応するつもりである。現時点ではイラクの戦意喪失が本物であることを祈るだけだが...。