ヒマヒマなんとなく感想文|

「真面目ちゃうちゃう可朝の話」他・落語本三昧


(森川 晃 2005.1)

1「真面目ちゃうちゃう可朝の話」月亭可朝 鹿砦社
2「御乱心 落語協会分裂と円生とその弟子たち」三遊亭円丈 主婦の友社
3「大増刷版 おあとがよろしいようで 東京寄席往来」橘蓮二、高田文夫 講談社文庫
4「びんぼう自慢」古今亭志ん生 ちくま文庫


 落語に関わる本を集中的に読んだ。8歳のとき初めてカセットテープに録音した音源はラジオの落語放送だった。当時すでに上方落語は凋落して、仁鶴や三枝のようにマスコミの寵児になる以外には自己表現の機会は少なくなってきた。落語専用の寄席はなくなり、総合芸能としてのショーを催す劇場(花月、角座など)のトリは落語ではなかった。勢いのある漫才からバラエティーショーを経て、曲芸と同じ時間帯に落語は組み込まれた。トリは新喜劇である。中弛みの最も不遇な時間帯である。しかも古典は許されない。漫才に近いネタに絞られてしまう。落語、特に古典落語はメジャーからはずされたが、まだ名人と言える落語家は多かった。

 東京は、関西に比べて、まだ落語の力は大きかった。上方と同様にマスコミの寵児になった者が金銭面では成功者だが、邪道として卑下されていたし、当人もそれを十分承知していた。三平を見たのは全盛期ではなかったが、テレビはあくまでも仮の居場所であるような雰囲気を感じた。もう寄席で古典を演ずる機会はなかったが、自分の置かれた微妙な立場(親の名を継ぐ)も含めて、本来の姿を隠して、最後までテレビタレントとして消えた。当方は子供だったが、三平には照れを感じた。懸命にバカを演じているが、とても恥ずかしそうなのだ。後に、同じ印象をビートたけしからも感じた。

 さて、1の本は、苦労知らずのまま師匠になった月亭可朝の一般的なタレント本である。桂米朝の一番弟子ということで、師匠および、弟たちが大出世したため重鎮の立場が確保されてしまったのだ。先見の明があったのだろうか。いろいろな意味で要領が良く、運の良い人である。当人の弟子(八方)も大出世しているし、良い星の元に生まれたのだろう。ところで、なぜかこの人はビートたけしを毛嫌いしている。ハリウッド礼賛国以外から絶賛されたたけし監督の映画を貶している。ある意味単調な人生だったので、やはり単調でワンパターンで人を驚かす場面だけに無駄金を投じる、金を支払って観る価値のないハリウッド映画を擁護したくなるのだろうか。

 2の本は、問題本である。25年ほど前の東京における落語協会分裂の内幕を、反円楽の立場で弟の円丈が厳しく批判している。マスコミの寵児になっても三平は認めたと記したが、同じ立場でも円楽はあまり好きではなかった。古典落語を録音して何度も聞きなおしていた時期もあったが、円楽は録音直後に重ねてほかの音源を録音したと思う。当時カセットテープは高価(60分で400円、現在の価値ならば2000円くらいだろうか)だったので、何度も重ねて録音して、録音した音が聞き取りにくくなったら捨てていた。円楽はほとんど記憶にないのだ。痴楽、志ん生、柳昇、それに米朝はよく憶えている。すでに笑点は放送していたが、当時の司会は三波伸介で、円楽は回答者だった。その回答もあまり好きではなかった。というより、この番組そのものがあまり好きではなかった。少なくともラジオ放送の落語のようなおもしろみを感じない。後に、笑点は台本を読んでいるだけで、アドリブが全くないという噂が流れた。真偽はわからないが、そんな噂が流れても仕方ないだろう。初代司会は談志だったが1年で辞めてしまった。関西ローカルでゲリラ的に横山ノック、上岡龍太郎などアドリブができる芸達者を集めて大喜利をしていた。これはおもしろい。笑点の原点はアドリブバトルなのだ。しかし、人気番組笑点は全国ネットのNHK的なステータスを維持するためにシステム化が強いられたのだ。それはそれで価値のある仕事なので仕方がない。ただ、このような番組に抜擢されることは、内心では恥じてほしいのだ。もちろん全力で演じるのだが、三平のような照れを感じさせてほしいのだ。円楽だけでなく笑点メンバーには全く照れを感じない。王道を進んでいる成功者ということだろうか。こういうことは第三者に指摘されるもので、当人が意識するのは恥である。2の本では毛嫌いしている兄さん(円楽)を悪く書いているが、罵倒表現をはずして事実だけを並べてみると、王道を維持するために最大限の努力を行っていることは確かだ。少なくとも自分の得にならない人物との接触は避け、得を導かせるためにはいかなる手段にも迷いはない。とても芸人の性格とは思えない。1の本の作者も同様である。芸人ではなく商人である。商人の語りがおもしろいはずはない。

 3の本は落語家の写真集である。やはり落語家は寄席で落語をしているときが一番良い顔をする。目が死んでいるのはテレビで活躍する落語家出身のタレントだけである。彼らはいずれも寄席では不安なのだろう。子供の頃三枝、仁鶴は好きではなかったと記したが、テレビを制限して大阪に戻ってからは良い顔をしている。この写真集でもそれは明らかである。

 4の本は、名人自身の語る寄席が唯一の娯楽だった時代のおもしろい話である。タイトル通り、人気はあったが貧乏だったころの事情を説明しているのだ。たいていは当人が「飲む打つ買う」にだらしないだけなのだが、どうしても止められない。これらの精算のために落語をしているのだ。取り立てる側も殺すよりも芸人を継続してもらう方が得である。最近までそんな芸人の話はあった。今後は、莫大な収入を保持するためだけに必死な連中が芸を継ぐのだろうか。とにかく当方は純粋なバカを観たいのだ。