ヒマヒマなんとなく感想文|

「凶弾―瀬戸内シージャック」


(森川 晃 2006.2)

「凶弾―瀬戸内シージャック」講談社

 気づいたらノンフィクションばかり読むようになっていた。それで、過去のさまざまな事件の詳細を知ることができた。しかし、なぜか瀬戸内海の海上で発生したシージャック事件の詳細を記した本には出会わなかった。一人も殺していない殺人未遂犯を警察が射殺した希有な事件であり、気にとめていた。そして、とうとう本を見つけた。経緯をドラマチックに表現するために小説というかたちをとっているが、おおむね事実である。

 人質をとった船上で射殺される映像はテレビで生中継された。子供のころのことだが、案外鮮明に覚えている。当時は銃を乱射して牽制を繰り返す狂気には、射殺以外に収める方法はないと思ったし、テレビでも正当性を強調していたような気がする。その後、なぜか犯人の人権がどうのこうのと、警察の判断を否定する論調が表れてきた。何でも反対しないと気が済まないのはゆがんだエリートの主張する民主主義だと思うのだが、この論調が幅をきかせるようになってきた。この事件後、犯人を射殺する機会は少なくなった。すでに殺人を犯した者であっても素手で生きたかたちで捕らえなければならない。犯人にとって有利なハンディである。

 犯罪への取り組み方が常に攻撃的で、警察優位に進めるのが正解とは思わないが、一瞬の判断で生死が決まる究極の判断が、社会の風潮で決まるのは、少なくとも被害者には納得できないだろう。シージャック事件以前に凶器を持つ犯人は射殺される可能性が高く、犯人もある程度覚悟していたと思う。そして、射殺を否定する世論が広まり、何をしても簡単に殺されないことは犯人も理解するようになった。この風潮は案外長く続いたが、訳のわからない事件が多くなり、世論も被害者の意見を尊重するようになってきた。現在は、犯人がある程度覚悟しなければならない時代に戻ったような気がする。

 かつて、日航機がハイジャックされ、多額の身代金と政治犯釈放のセットで、犯人を逃がした事件があった。人の命の重さを説いた当時の総理は賛美されたが、諸外国では判断ミスを指摘していた。しかし、当時の日本では一人でも人質に犠牲があれば、総理は職を失っただろう。現在、同じシチュエーションの事件が発生したら果てしてどうなるだろう。無条件で犯人の言うことを聞いたら賛美されるのだろうか。

 ノンフィクションを読み続けていると、犯人側の視点では、事件の本質はいつの時代も何も変わらないが、事件の終結方法、その後の裁判には流行が影響していることがわかる。本当にそれで良いのだろうか。裁判はともかく、現場で生死と直面する戦いにおいては、判断は画一的な手法がとられるのが自然だと思う。素手で挑まれたら基本的には素手で、ナイフならば警棒など、銃なら銃で対抗するのがルールだろう。また、戦意むき出しならば強い反撃をすべきだし、戦意喪失していれば静かに武器を矛に収めるべきである。

 シージャック事件で射殺に踏み切ったのは、犯人の銃の乱射に起因する。銃弾は報道の機材にも命中しており、犠牲者が出なかったのは偶然であるという論理である。この論理に間違いがあるのだろうか。この事件があったことは事実だが、この手の事件が発生したときにはあまりマスコミは取り上げないような気がする。封印しているのだろうか。ほかに意図的に封印していると考えられる事件に「三菱銀行北畠支店立て籠もり」事件がある。白昼、銀行に立て籠もり猟銃を乱射し、このときは複数の行員が犯人に射殺され、最後は機動隊が犯人を射殺した。陰惨な事件であり、忘れたい気持ちもわかる。しかし、シージャック事件は、単に社会風潮の流行が封印した事件のような気がする。しかも、現在ならば警察の判断を正当化する風潮が高まっていると思える。犯罪史を語る際には是非取り上げてほしい事件である。