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「不時着 特攻−「死」からの生還者たち」


(森川 晃 2007.2)

「不時着 特攻−「死」からの生還者たち」日高恒太朗 文春文庫

 本書は特攻隊として出陣したが何らかの事情により生還した兵士の記憶をまとまたものである。事情はどうあれ、本来の目的を達成できず、無念のまま終戦を 迎えている。圧倒的多数の信念を成就した戦友への後ろめたさにより、彼らは表立って発言をすることができず、思いは閉ざされてしまった。それから60年を 経て、彼らの思いを取り出した。当時の「失敗」が責め立てられることは考えられないし、「生還」を喜ばしく公言してもかまわないと思うのだが、今でも無念 は消えていない。

 異常が通常だった特殊な状況でわずかな確率で生き残ったことは、「生」への純然たる執着につながるのだろうか。戦後の彼らの生涯は、墓場まで持ち込むつ もりだった強烈な体験が、強固な基礎となっているように思える。意地汚い自己顕示をすることもなく、与えられた状況で精一杯「生」を謳歌している。分不相 応なレベルをうらやしく思うことなく地味に暮らすことが、最大の幸福であると悟っているのかもしれない。これは、見方を変えると罪人の懺悔ともとられそう だが、リアルな「死」に直面した体験が、本来の意味での要領の良い生き方を導いたと考えたい。「死」への無知は、自殺や殺人、そこまでいかなくても人を思 いやることのできない感情につながるのではないだろうか。

 昨今の悲惨な殺人事件は、「死」を軽視する感覚がなければ容易に理解できるものではない。また、「死」への無知は、「死」を無理解のまま怖がり、「死」 を独自の解釈で説明する特殊団体に所属していくことにもつながるような気がする。「死」が遠い存在だと、自分で理解することは楽ではない。しかし、絶対に 避けられない結末である。その不安が、不条理な経緯に至らせてしまう。「死」の絶対的な理解は不要である。自分なりの理解で十分なのだが、その境地に至る 人は多くない。人以外の動物は「死」を自然なかたちで理解しているのではないだろうか。不条理な経緯で結末を迎える動物はとても想像できない。動物は 「死」が身近で、それを意識して隠すことはない。からだの構成で脳の比率が高くないことが「死」を容易に受け入れる理由とするのは、人のエゴではないの か。

 ところで、教育というのは幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、大学院と順に教える側が簡単になっていると考えている。教える範囲が専門化し、狭くなる し、教えられる側の受け入れ体制も整ってくる。それなのに、教える側は順にベテランになっていく。幼年教育はベテランが教え、専門教育はほぼ同世代の活き の良いのが携わるのが理想的ではないだろうか。幼年教育時には、教えられる側にいろいろな意味で準備が整っていないので、多くの経験から最良の対策を導き 出すことができる。また、教える側の「死」の確率が高く、ごく自然に身近な「死」に直面させることができる。幼年時は適切な応対を知らないため残酷さを隠 すことができない。簡単に「死ね」と発言してしまう。しかし、本心だろうか。身近な「死」に直面するだけで、その発言が不適切であることを理解するような 気がする。それが、毎日対面していた教員の死だったら。卒業して中学生になってから風の噂で聞いた訃報だったら。小学校のときの教員がせいぜい一回り (12歳)くらい年上で、30年後の同窓会ではどちらが教員か生徒かわからなくなるよりは、祖父母の世代で30年後にはほと んど生存していない教員の方が、教えられる側には糧になるものが多いと思う。

 異常が通常だった状況は、強引ではあるが、残されたものへ素直な「生死」の理解を導かせたと思う。この状況を理想的とは決して思わないが、自然の摂理を隠蔽する不自然を解消する方策のひとつではある。