ヒマヒマなんとなく感想文|

「鉄塔 武蔵野線」


(森川 晃 2007.11)

「鉄塔 武蔵野線」銀林みのる ソフトバンク文庫

 この場は読後感なので、あまり本文の筋をなぞることはしないが、この本では少し記す。


埼玉県在住の小学生の男子が、近所の送電線の鉄塔に路線名と番号が 記されていることに気づいた。電線をたどって隣の鉄塔に至り、番号が若くなっていることを確認した。さらに次の鉄塔に出かけていき、予想通り番号は若く なっていた。ずいぶん遠方まで来たので、とりあえず自宅に戻った。そして学校で遊び仲間にこのことを話し、1番までたどる冒険旅行を誘った。

そこには何が あるのだろうか。彼らは原子力発電所があると考えていた。翌日から冒険旅行が開始された。足は自転車である。先日一人で確認した鉄塔からさらに何本かをた どり、日が暮れた。次の機会にはその鉄塔からさらに次の鉄塔をたどった。自宅からどんどん遠ざかっていく。最初は1日に数本をたどることができたが、先回 の最後の鉄塔までが遠くなるにつれてその本数は少なくなる。それでも辞めることはできない。ついには野宿をして当局に保護されたりする。最後にはゴールに 到達するが、そこは原子力発電所ではなく巨大な変電所だった。

 男子向けの児童文学である。地図で確認すればそれほど苦労はなかったと思うが、そんなずるいことに思いは及ばなかった。道路沿いではない送電線をたどる のはなかなか大変なことである。この本の末尾には地図が添付されているが、簡単なものなので道路と送電線の関係がわかりにくい。送電線が記された国土地理 院の地形図で確認すると苦労をより共感できると思う。まあ、そこまで確認しなくても「まじめなバカ」の気持ちよさは理解できるだろう。

また、子供には子供 の自治が存在し、その範囲だけでさまざまな事象を解決していくことの大切さが、今でも残っていることがうれしい。子供の自治に大人が介入したことが、子供 が自然に身につける責任や意欲の形成を止めていると思う。子供だけでやっていいこととやってはいけないことを判断していれば、子供起因の事件は未然に防ぐ ことができるだろう。大人の介入は、子供がやっていいと判断したことが、社会的にまずいときだけでよい。介入が多すぎるので判断することを辞めてしまう。

学校は学科を教えるだけで、校外では遊びの中で自分の適する場を見つけるものだ。遊びの組織の中で、適した役割を見つけ ることが将来の方向性を見出すことに役立つ。また、役に立たない人は一人もいないという思いやりの精神も身につく。大人の介入は、与えられた場における自 治を司る能力を身につけさせない。与えられた場で自分のすべきことの判断ができないので、無気力や暴走のような極端な例が多くなるのだ。

 さて、この本では、最後には保護した東電職員に理解してもらい、車で最後の鉄塔に運んでもらった。ゴールの変電所にも招待してもらった。送電線は都市機 能を維持する重要な施設なので、防犯施設は整っている。彼らの行動はカメラでキャッチされていたのだ。全く害のない行動なので、見逃していたが、最後に手 を差し伸べたということである。


これはハッピーエンドなのだろうか。最初の300ページくらいまでの子供たちが大人(東電職員)に気づかれないように鉄塔 に接近して番号を確認するくだりが秀逸だったのに、最後の数十ページで台無しである。テレビや映画のようにハッピーエンドにしなければならないという制限 があるのだろうか。本の世界はまだ自由が残っていたと思っていたのだが。もしかしたら児童文学だから気を遣ったのだろうか。いずれにしてもひどい勘違いで ある。実世界にはハッピーエンドはほとんど見当たらないのだ。

浦島太郎、かぐや姫のようになんだかよくわからない結末が理想的な文学である。これには子供 も大人も関係ない。子供は理論では理解できないかもしれないが、感性で良いものを見分ける能力がある。
文学を含め、美術 、音楽など、あらゆる芸術的パフォーマンスは、大人と同様の完成度で子供に提供しなければいけない。当方は20歳まで本を読んだことがなかったが、不条理 なカフカの小説も、小学生のころに読んでおけばよかったと思った。もちろん漢字は読めないので、ひらがなの多い本にしてもらいたいが。

ところで、本は読ま なかったがドストエフスキーのようにわかりやすい教訓を含む作品については、子供の頃にどこかで聞いている。20歳をすぎてドストエフスキーも読んだが、 ストーリーは知っていたので、長編だが案外早く読めた。


教訓を含めば、大人の文学作品でも子供に提供していたのだ。教訓の有無に関係なく、人によって感じ 方の異なるシュールな作品も子供に提供していけば、殺伐とした社会にはならないと思う。