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『ニューギア砲兵隊戦記』

( 陸戦研究家/神博行)

『ニューギア砲兵隊戦記』 大畠正彦著  光人社刊

東部ニューギニア歓喜嶺で死闘を展開した若き砲兵中隊長の記録である。

著者の故大畠正彦氏は陸士52期、昭和17年1月より野砲兵26聯隊第3中隊長として、昭和18年東部ニューギニアの戦場で激闘三ヶ月半、山砲2門を指揮して発射弾数4260発を射耗した、これは驚異的な数字で豪軍も「信じられない」と言ったと本書で解説をしている葛原一佐から伺った。

ニューギニア戦線の私の印象は、補給が絶え飢えによる自活生存の戦いであったとする部分が大きく、このような組織的戦闘を行っていたのかと考えを改めさせるものであった。本書を読んでまず砲兵の編成、装備、訓練、補給、船上生活、陣地構築まで戦闘の一挙手一投足まで描かれた砲兵を知る本としては貴重な文献である。また陸上自衛隊幹部学校戦史教官による解説が素晴らしい、ちなみに幹部学校とは旧軍の陸軍大学校(陸大)に相当する学校である。

私が本書を読んで一番目を引いたのが「砲兵魂」である。砲兵の戦いは当然砲を射撃することである、しかし砲兵魂の発露は砲弾を射耗し、撤退する場面で見られた。撤退は困難を極め部隊からはぐれる者も出てくる。

歩兵の機関銃分隊に合流した砲兵の初年兵がいた、機関銃の分隊長が「機関銃は重すぎるから捨てよう」というのを「こんな軽い銃を捨てるなんて男じゃない」と分解した機関銃の部品のなかで一番重い銃身を担いだので、分隊長も前言を撤回して苦心惨憺して機関銃を持ち帰った。この機関銃分隊は飲まず喰わずでよく機関銃を持ち帰ったと聯隊長より賞詞を受けた。

砲兵にしてみれば山砲の砲身は重機関銃の約2倍の重さであるので、「軽い」と感じていたのであろう。また砲隊鏡を持って撤退する観測手に「重いから捨てろ」と言うのを「砲隊鏡は観測手の命だ」として戦死するまで持っていたエピソードを読み、私は戦車兵にはそんな精神があるのだろうか?と考えてしまった。

戦車が戦場で故障したりした場合、回収不能なら戦車を担いで行くわけにもいかないし、このままにして敵の手に渡すこともできない。当然戦車は処分するのだが、どうやって処分するのか乗員で語り合ったこともあるので「戦車」を命がけで護ると言う思想はなかったであろう。

戦車がやられたら、下車して戦う下車戦闘が戦車兵には待っているのだから。 もっとも戦車撃破されて戦車乗員が無傷で生き残っているはずもなく、やはり故障して戦場で孤立した場合という想定に限る話なのかもしれない、いや戦車の燃料が無くなって補給される見込みがない場合も考えられる。

話が横道にそれた、大畠中隊長は部下の馬場小隊を歩兵部隊へ配属させたが、砲兵を掩護せず歩兵が先に逃げため馬場小隊は全滅してしまった。大畠中隊長は戦後も長くそのことを気に病まれていた、馬場小隊の最後すら解っていなかったのだ。大畠氏は戦後陸上自衛隊に入隊、第7特科連隊の大隊長、副連隊長を歴任された。

オーストラリア戦争記念館では「歓喜嶺の戦闘」は「ポートモレスビー」「フィンシュハーフェン」と並んで三大陸戦史のなかに入る重みがある戦史なのだ。幹部学校戦史教官の葛原一佐はオーストラリアで「歓喜嶺の戦闘」について調べ、大畠氏に御報告したそうである。

戦史とは敵、味方の資料双方が揃って初めて完全なものになるのだと思った。