ヒマヒマなんとなく感想文|

信憑性感じる文と全信用吹き飛ばす文

(加藤健二郎 2013.7)



「戦場の狗」(筑摩書房)

日本軍のスパイとして、中国大陸を中心に相当な冒険紀行を繰り返した人の手記 である。実は、この本に出会ってからのカトケンの戦場突入行は、非常に成功率 が高くなったのだ。突破口の見つけ方とフットワーク、そして離脱タイミングが絶好調にうまくなったのだ。

というわけで、知り合いの学者に、「この本の内容はどれくらい信ぴょう性あり ますかね?」と訊いてみた。すると、時代考証、時事系列などの何か所にも及ぶ 間違いがあるので「架空」とのこと。彼のブログにもそのことが公開されてい た。また、大事な部分のディテールが書かれてなくボヤかされているのも「捏 造」の根拠としている。カトケンは、大事なとこはボヤかされるものとみる性 格。戦場で出会った怪しい任務の人が本名や本当の肩書きを名乗らないことは多い。

 時代考証、時事系列が間違っているなんて、戦争体験者の話にはあって当然の こと。戦争というのはそれほど混乱しているもの。しかも50年以上前の記憶。

 学者氏が指摘した間違い部分の多くは、出版社の校閲で正せるていどの内 容。校閲は、本人証言を重んじる観点から、あえて、本人の言葉のままにしたの かとおもってしまうほど、確かに、初歩的な間違いは多い。考えよによっては、 50年前の記憶を掘り起こした体験本なのに校閲がキッチリと整合性をつけすぎ てる正しすぎる文章は怪しいってか?

 この本が筑摩書房から発刊された1993年1月。今のように無名の新人が、 筑摩レベルのマトモな出版社からいいかげんな本を出させてもらえる時代ではな かった。学者氏やカトケンが本を出し始めた単行本粗製濫造時代とは、1冊の重 みが違っていた気がする。 とはいえ、文中いくつかの間違い指摘から1冊すべてを「捏造」本とする学者氏 の判断が間違ってるとは言い切れない。しかし、最後に書かれた以下のコメント によって、学者氏の信用がほとんど吹き飛んだ気がする。

「・・・、シナ人の反日ブラック・プロパガンダに加担した書物であることは瞭 然としている。」 学者氏のブログをコビペしたものは以下です。

(文中で学者氏は私の名前を伏せてるので、学者氏の名前を伏せる意味で、ブロ グへのリンクは避けておきます。)

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つまらぬ本のために1日前後、無駄にしてしまった。  函館市立中央図書館に堂々と開架で並べられている、それも「小説」コーナー にではなくノンフィクションの扱いになっている『戦場の狗 ある特務諜報員の 手記』(1993-1、筑摩書房刊)である。

 じつは、ある人から「満鉄に雇われ英才教育されたアイヌ人スパイがいた」と いう話を聞いた。そのソースが本書である。  その人は当該書の内容を事実だと信じ込み、海外辺境一人旅のバイブル視して いるようであった。

 わたしはそんな話をこれまで聞いたこともなかったので、「そのネタは、史料 の信頼度をじゅうぶんに精査する必要があるだろうと直感します。そんな事実が もしもあったのならば、たとえば北海道でいちばん購読戸数の多い『北海道新 聞』のような反政府左翼的マスメディアが、放って置くわけがないと思います。 よろこんで取材して「戦前暗黒史観」の補強記事にしているはずでしょう」と返 信した。

 わたしは『表現者』に「近代未満の軍人たち」を連載している。いつかは北風 磯吉(アイヌ出身兵で金鵄勲章)について、ぜひとりあげたいとも念じていた。 ところが北風の関係史料は小樽図書館に行けばあるそうなのだが、函館図書館に は全く無いときている。そのために、いまだに旅順の英雄・北風については何も 書けないでいるのは残念である。

 しかし北風以上の戦争の英雄がいるという。これを知らずにいたとなると、や はり北海道在住のライターとしては恥であるから、なにはともあれ確認せねば と、わたくしは当該図書を借りて読んでみたのだ。

 著者は「和気シクルシイ」という男性で、生まれが大正7年=1918年4月 (戸籍上は6月とか。この変更のいきさつも信じ難いものである)。  74歳で初めて自分史を公刊するため書き綴ったことになる。それまで誰にも取 材を受けなかったのか?

 インターネットで検索すると、誰もまともにとりあげていない人物であること だけは確認できるであろう。  子供の頃に、近所の誰とどんな遊びをして、ある日こんなことがあった――とい う述懐がない。こうしたディテールの不足感は、全篇を貫いている。

 1929に「ハルピン学院」で「体術」の67歳の「老師」からテコンドーを2年間 習ったという。しかしネットで調べると、そもそも「テコンドー」という単語が 創出されたのが1954年12月であったと知れよう。

 著者は松岡洋右と3回会っているというが、やはりディテールが乏しい。松岡 の伝記を読めば誰でも書けるようなことしか書いてない。  ……というか、この著者は松岡の伝記も十分に確認していないらしいことは、読 むに従って明らかとなる。  第一回面会は1931-9で、場所は大連だったという。13歳の少年を応接間に迎え 入れ、松岡は英語で長広舌を揮い、共産主義を排斥するための満鉄の義務や、ド イツでのナチズム台頭などにつき語ったという。和気はそれまで8年間、外国語 の英才教育を受けていたので、その内容が分かったという。

 1931-9-20から、燕京大学で、言語学者のアルマンド・スタニスロー先生(50 歳前後、略称スタン)に就いて学ぶ。  1932-6から1933-5にかけて、スタン教授の学術調査キャラバンに加わり、蘭州 や昆明まで行って北京に戻ってきた。装甲バス、有蓋トラック、ジープ混成だっ たという。この著者はジープが1930年代前半には存在するわけがないという自動 車発達史には、頓着をしないらしい。

 1933-12のクリスマス後に、著者はスタン教授と中東旅行に出たという。この とき、スタン教授が「戦略事務局」OSSのスリーパーであると知ったという。

 この著者は、OSSが1941年以前には存在しないことにも興味がなさそう である。

 1937年10月20日、スタン教授は著者をワシントンに連れ出し、松岡洋右に会わ せた。場所は日本大使館の一室だという。史実では松岡はその時期には満鉄総 裁。渡米の事実もないが、著者はそういうことには読者は関心をもつまいと踏ん でいるのだろう。

 1938-9に神戸につくと、松岡の指示で、「相沢中佐」が迎えに来ていた。この 中佐は「ワシントンの日本大使館の山荘」〔オイオイさっきは大使館の一室だっ たろ〕で松岡に会ったときにも松岡の身近に陸軍中佐の制服を着ていたという が、神戸では背広だったという。

 著者は数ヶ国語に通暁する記憶力の良い若者のはずだが、相沢中佐の下の名前 は一回たりとも出てこない。兵科も、出身中学名もわからない。

 あとになると、相沢中佐は、大佐となって出てくる。それは1940のことであ る。ふつう、中佐から大佐へは3〜4年で進級するから、これは、おかしくない。

 しかし、相沢は、著者より12歳、年上だという。ということは1906生まれ。明 治39年である。明治39年生まれのエリート軍人は、ほぼ、士官学校39期である。 39期の同期で最も早く大佐になったエリート君は、昭和20年3月の昇進である (次の40期になると、終戦前の大佐はゼロ)。

 S16に大佐である陸軍軍人ならば、それは陸士34期より前でないと、整合しな いだろう。  ……とまあ、そんな計算をやってみずとも、大佐以上の軍人の名簿は『陸海軍将 官人事総覧』でぜんぶ調べがつくので、終戦時に大佐だった「相沢」なる陸軍軍 人がひとりもいなかった事実は、簡単に知られることなのである。

 相沢は、燕京大学を卒業したあと、ドイツに3年間も領事館付武官として住ん だという。ベルリンには「大使館」があった。

 著者は1938-5に相沢中佐の案内で熱海の別荘に松岡を訪ねたという。松岡は、 いま行なっている南方作戦を中止して中国本土の反共に努力すべきだと語ったと いう。

 まだ北部仏印進駐すら始めていないんですけど……。海南島もS14だしね。

 1938夏時点で著者はアメリカにおいて、北千島のアイヌ語の研究で博士号を得 ているという。  論文博士ならばその論文のタイトル、博士号をくれた大学、レフェリーの教 官、ぜんぶ覚えていて当然だろうが、ひとっこともそれが語られることはない。  「燕京大学」卒の20歳の日本人に言語学系の博士号をくれてやるアメリカの大 学が、当時存在したとは、想像もできないけどね。  著者は、1938-12-15に相沢中佐につれられて大本営へ行き、いきなり陸軍少尉 に任官したという。  非軍人である若者は満20歳で徴兵検査を受けねばならなかった。その場合、高 学歴者でも最初は陸軍2等兵とし、予備士官学校に通わせる間は下士官とし、そ れから陸軍将校へ任官させたものだ。いきなり陸軍少尉なんてあってたまるかい。

 1939-2に相沢中佐につれられて新京へ。4-19に新京の「関東軍本部」に行き、 「参謀部」で話した。この著者の記憶には、正確な組織名、部署名がぜんぜん 入っていないらしい。それなのに早熟の天才? すくなくも本書の作者が旧軍の プロ軍人などではなかったことは確かであろう。  1940-6末、天津で、相沢大佐に会った(p.62)。

 1941-6には重慶に潜入。通路のスピーカーで、「東南アジアやマレー半島の戦 況」などを放送していたという。日本軍がマレー半島に上陸するのは1941年12月 なのだが。

 1941-11のベトナムに、アメリカ製のジープがあったという(p.91)。  松岡は、1940-4にスターリンに会って帰国する途中に外務大臣を罷免されたと いう(p.95)。著者は、戦前の総理大臣には閣僚罷免権が無く、総辞職しかないと いうことを知らないらしい。7-16に近衛は松岡を抛り出すために総辞職したとい うのが史実。もちろん松岡はとっくに帰朝していた。  1941-12のタイに、ジープがあったという。

 バンコクは建物が壊れていた。なぜなら1940-9に日本軍が仏印に送った軍隊が やったのだ(p.103)。北部仏印進駐で中立国のタイの首都にまで日本軍が雪崩 入ったら、その時点でもう世界大戦じゃないかとは、この作家さんは考えないら しい。

 1942-2中旬に、アメリカ製のイギリス軍ジープでバンコクからシンガポールへ 走ったという。5ミリ鋼板で装甲されていたという(p.104)。

 シンガポール近くの水上では日本海軍の巡視船が英語で「浮遊魚雷に注意して 進め」と呼びかけていた、という(p.116)。 大川周明は「老壮会」を主宰し、「行地社」を結成したという(p.118)。

 1945-1にチベットにあった米空軍のゴルムド基地で、ロシア語放送を聞いたと いう。それによるとアメリカが開発中の新型爆弾が製造段階に入ったので、これ で日本本土を攻撃すれば戦争の終結はそれほど先のことではないと言っていたと いう(p.144)。史実ではトリニティ実験が7月。しかも広島投下まではプロジェ クトは厳秘にされていた。

 1945に「中支派遣日本軍」が安徽省に居り、その「中支派遣軍司令部」は南京 にあったという(p.166)。 1945になってから、著者は、「中尉」になっている ことを知ったという(p.170)。1939から少尉を6年以上もやってたのか? それ だけで映画になるだろ。「最先任少尉」だわ、間違いなく。

 松岡は1941に、日ソ中立条約締結後、日本に戻る車中で内閣総辞職を聞き、自 らも外務大臣の席を追われたことを知った、という(p.172)。

 1945-7の大同。半島では徴用されるというので30万人くらいの朝鮮人が北支の 大同の炭鉱に移住して、シナ人相手に威張っていた。朝鮮人は、日本の敗北が近 いと知るや、現地人の側に寝返ろうとしたが、現地シナ人はそのまやかしに乗ら なかった。朝鮮人は「半国人[バングオレン]」と蔑称されていた(p.180)。

 こういう記述と、シナに関するディテールだけがやたらに詳しいことから、本 書の作者はシナ人ではないかとも疑われる。

 張家口で聴いた1945-7-9昼の重慶放送は、アメリカが新型爆弾の第一回実験を 太平洋のどこかの島で実施したとアナウンスしていた。それは「アトミック・ボ ム」であるとも言っていたという(p.182)。 相沢はリッチモンドのバージニア 州立大学で卒業するとき金時計を得たという(p.195)。

 南京の虐殺に反対し、城内の酒楼で毒殺された関東軍参謀・川崎辰雄大佐がい たという(p.198)。参謀が死んだ事件があったらそれだけで大事件でしょう。も ちろん、実在などしません。

 この川崎大佐は著者の父の妹が嫁いだ先で、旭川第七師団にいたが、関東軍参 謀部二課に転属になっていたという。

 著者は日本に帰ってきて「東京拘置所」に入れられ、日比谷の濠端のGHQ建 物内で取り調べをうけたという。  「巣鴨」という単語が出てこない。そして、拘置所の中に他に誰がいたのか、 一行の記述もない。だいたい第一生命ビルの中で犯罪容疑者の取調べなどするも のか。場違いも甚だしいだろう。

 あとがきにいわく、相沢大佐には戦後いちども会っていないが、東南アジアあ たりのどこかで暮らしているらしい(p.231)。

 随所に旧日本軍の対住民暴行が捏造されて証言されており、架空の「アイヌ 人」のIDを駆使して、シナ人の反日ブラック・プロパガンダに加担した書物で あることは瞭然としている。  中共が仕掛けるこの類の低級な宣伝企画が、またこれから増えるのではないか な。ミリタリーの「識字力」(リテラシー)を身につけ、せいぜい警戒すべし。

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以上、学者氏のブログより。


続く