活動ゴジラ・怪獣関連特撮ファン・常岡千恵子の怪獣史観+α

特撮ファン・常岡千恵子の怪獣史観

『スター・ウォーズ』サーガの変節と米帝国主義の肥大 2-6



 ともかく、ルーカスが監督に復帰した新三部作では、人間ドラマの演出も著
しく浅薄になった。
 元来、ルーカスは、芝居の演出が不得手である。この作品でとくに気になる
のは、アミダラの棒読みのような口調。合成や特撮とは、まったく関係ない、
基本的なことなのに、なぜこんな投げやりな芝居にOKを出したのか、理解に
苦しむ。結局アミダラには、きれいな着せ替え人形以上の役割を期待していな
いようで、旧三部作のレイアを創造した人間とは思えぬ、変わりようだ。

 また、ドラマが盛り上がらないもう一つの原因は、感動の余地を与えぬほど
の慌ただしい編集にある。これも、ルーカスの関心が、人間ドラマよりも視覚
的な快楽、つまり特撮に注がれているからだろう。
 特撮では、仕掛がバレないように、短いカットを重ねていくことが編集の基
本になっている。こともあろうに、ルーカスはこの手法をドラマ部分の編集に
持ち込んでいるのだ。
 もっとも、新三部作では、ありとあらゆる場面に複雑な合成が入り込み、も
はやドラマ部分と特撮シーンの区別が明確ではなくなっている。
 
 第1作『スター・ウォーズ』は、スピード感のある編集で軽快なテンポを作
りだし、革命的だった。しかし新三部作は、カットの切り替えがあまりに早す
ぎて、感動の余韻に浸る暇もない。
 しかも全体の流れにメリハリがなく、一様に早すぎる切り替えのせいで、ま
るで次から次へとどんどん絵が変わる紙芝居のようだ。
 アナキンと母親の悲しい別離のシーンも、無惨なまでにアッサリとしている。
 CGを含め、これだけ高度な特撮技術を導入しておきながら、なんとも、も
ったいない話である。
 さらにもうひとつ、『スター・ウォーズ』の世界に不可欠なのが、音楽だ。
だが、その音楽までもが、空疎に聴こえるのは、どういうことなのだろうか。
 今回も、第1作からずっと音楽を担当しているジョン・ウィリアムズが手が
けているのに、何かが違うのだ。
 旧三部作では、各シーンの登場人物の心の動きを代弁するような、丁寧な曲
作りがなされていた。音楽と画面が、完全に一体化して、同じベクトルでひと
つのシーンを表現していたのである。
 
 ところが、新三部作では、音楽が画面から遊離しているように感じることが
多い。『スター・ウォーズ』サーガでは、伝統的にほぼ全編に音楽が流れてい
るが、新三部作では、スクリーン上の状況とは関係なく、惰性で音楽が流れて
いるようなシーンが目だつ。盛り上がりが欲しいところで、淡々とした曲が流
れ、かえって音楽が邪魔をして、感情的に入り込めないシーンもあるほどだ。
 老いを迎えたジョン・ウィリアムズの感性が衰えたせいかもしれないが、最
終的には、ルーカスの責任である。

 繰り返すが、新三部作は、銀河共和国の衰退と帝国の勃興の過程を辿る作品
群だから、ストーリー自体が退廃的なのは、うなずける。
 だが、これまで指摘してきたように、主人公たちの描写のあり方や製作者の
姿勢にまで、本末転倒な退廃ぶりが窺えるのである。
 ITバブルに沸く米国で、ルーカスもCG技術という魔法を手にして有頂天
になり、すっかり魂を抜かれてしまったようだ。
 『スター・ウォーズ』サーガは、米国社会の風潮に歩調を合わせるかのよう
に、若々しく爽快な冒険活劇から、短小軽薄かつ退廃的な政争劇へと変節した。

つづく