ヒマヒマヒマヒマモード東長崎外(国内)北海道

戦車兵神博行の戦争遺跡探索11

(慰霊碑から見る北方戦線)


『北千島慰霊碑』


 札幌護国神社の境内には北海道縁の部隊による、各時代の各戦場における戦没
者の慰霊碑が建立されている。
日露戦争の慰霊碑は第3軍軍司令官だった乃木希典陸軍大将が揮毫している、第
3軍の隷下部隊が北海道の旭川第7師団だった。
札幌の月寒歩兵25聯隊は203高地を占領した聯隊であった。
各市町村にもこのような慰霊碑が存在する、そんな慰霊碑が誰が揮毫したのか見
るのも楽しみの一つだったりする。
写真は北千島、特に終戦後ソ連軍との占守島の戦闘で戦没した者の慰霊碑である。
『ノモンハン英魂之碑』


 北海道の部隊には北方の戦闘やロシアやソ連軍との戦闘で戦没した者も多い、
「尼港事件」の碑もある。
 私の専門分野の一つでもある「ノモンハン事件」、ソ連軍、モンゴル軍(外蒙
古)の言うところの「ハルヒンゴルの会戦」「ハルハ河戦争」、日本、満州軍で
は「国境事変」とされている戦闘のことだ。
日本軍、ソ連軍共に正確な戦没者の数が解らないのが特徴だ、戦後のシンポジュ
ウムではソ連軍の方が日本軍より戦没者数が多いことが判明した。しかし日本側
は捕虜になった日本兵の数を戦没者に入れたり、戦闘後の捕虜交換の際に内密に
処分されていたらしい、そのため戦没者の数はよく解っていない、戦後も日本に
帰らずソ連に残った者も数多い。
悲しい話であるが現実だ、戦後ソ連に抑留された日本兵浮虜が柵沿いに黒パンを
置く東洋人らしい人物がどうやらノモンハンの生き残り捕虜だと証言している。

 この慰霊碑の揮毫はノモンハン事件当時、第七師団から23師団に配属になっ
ていた歩兵26聯隊長須見新一郎大佐だ、戦後責任ととらされ予備役編入になっ
た、石は自衛隊の11施設大隊が協力して設置した。
『アッツ島玉砕雄魂之碑』


 アリューシャン列島の一つでアメリカ領土であるアッツ島とキスカ島を占領し
たがアッツ島は玉砕、キスカ島は奇跡の無血撤退した。
昭和18年5月12日1万人を越す米軍が上陸した。
日本軍守備隊将兵2640名は孤立無援のまま山崎保代大佐(戦死後中将へ昇進)以
下4倍の敵兵と戦い米軍に1860名の死傷者を出させた。
5月17日ついに玉砕、日本軍の生存者は27名だった。

戦闘後の米兵は日本軍の幽霊と戦い同士討ちで犠牲者が出た。
 この島から帰還した部隊があった、穂積中佐率いる穂積部隊だ。
この部隊にノモンハン事件時曹長でソ連軍への軍使へ行った木下少尉が居た、彼
は終戦後占守島での戦闘でもソ連軍の軍使にもなった歴戦の勇士である、木下少
尉はアッツ玉砕前にキスカ島への激しい艦砲射撃と空爆にさらされたキスカ島へ
救援に派遣され、その直後に米軍はアッツ島へ上陸した。
『アッツ島慰霊碑』


 キスカ島は海軍の第5艦隊司令長官河瀬四郎中将と北方軍司令官樋口季一郎中
将の話し合いで「ケ2号作戦」を第1水雷戦隊司令官木村昌福少将に命じキスカ
島守備隊陸軍2430名海軍3210名計5640名の将兵を救出することになった。
 撤退時、木村少将の指揮による奇跡の救出作戦もさることながら、幾通りもの
偶然が重なりその奇跡が達成された。
碑文にも記載されているがアッツ島の英霊の御加護があったればの話だ。詳細は
省くが、艦隊がアッツ島近くを航行していた時、全滅した筈のアッツ島に日本兵
将兵が万歳をしていたのを多数の将兵が目撃している。
アメリカ軍はキスカ撤退を知らずに激しい空爆と艦砲射撃を加え上陸したが犬が
2頭いただけだった、史上最大の上陸演習と言われた。
 木下少尉はこの少ない生存者達で慰霊碑建立を目指し尽力された、樋口中将も
出席した慰霊碑建立の式典後、木下少尉は亡くなった。
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続く